第635回 さらば、ユーリ・ジョルカエフ(1) 親子二代のフランス代表

■米国に関心が集まった今年の秋

 この秋はフランス国民がいつになく米国に関心を示すことになった。来年の大統領選挙に大きな影響を持つ米国の中間選挙の動向はフランス国民にとって大きな関心事であることから連日、中間選挙に関わる動きはトップニュースで報道された。そして、通常は国内あるいは欧州にしか関心を持たなかったフランスのサッカーファンが、珍しく10月には他大陸、しかも北米に目を向けることになったのである。それが今回から紹介するユーリ・ジョルカエフの引退である。

■親子二代の代表選手の誕生と苦い敗戦

 本連載の読者の皆様ならばジョルカエフについて改めて紹介する必要もないと思われるが、父親のジャン・ジョルカエフは、1960年代中盤から1970年代にかけてフランス代表として活躍しており、親子二代のフランス表選手である。ラグビーの世界では親子二代の代表選手は珍しくないが、サッカーの場合は珍しく、ジョルカエフが1993年に代表にデビューしたときは大きな話題となった。
 しかし、その明るい話題もすぐに暗転した。ジョルカエフの代表デビュー戦は1993年10月13日の米国ワールドカップ予選のイスラエル戦である。この試合、フランスは引き分け以上ならば米国行きが決まるが、2-2の終盤86分にダビッド・ジノラに代わりジョルカエフが出場する。ところがこの試合のロスタイムにフランスは決勝点を奪われ、2-3とショッキングな敗戦を喫する。その翌月のブルガリア戦ではロスタイムにジノラの不用意なパスから決勝点を奪われ、フランスは米国行きを逃し、ジョルカエフの親子二代のワールドカップ出場は消えたのである。

■フランスの黄金時代を支えた背番号6

 しかし、エメ・ジャッケ監督が就任した新チームでジョルカエフは攻撃陣の軸として常に起用される。その後登場したジネディーヌ・ジダンとポジションが重なっていたが、両者を並び立てつつ、フランスは1998年にはワールドカップ優勝、2000年には欧州選手権優勝を果たし、その勝利の中心には背番号6のジョルカエフがいたのである。代表でのジョルカエフの活躍は1998年のワールドカップ・フランス大会の決勝、「フランス・サッカー実存主義」の第39回で紹介した1999年2月にウェンブリーで初めてイングランドを破った試合、そして2000年の欧州選手権の準々決勝のスペイン戦、決勝のイタリア戦などが印象的であり、枚挙に暇がない。
 2002年3月27日のスコットランドとの親善試合では試合の終盤にジダンに代わって試合に出場し、ジダンからキャプテンマークを譲り受ける。これもまた歴史的なことであり、実はジョルカエフの父、ジャン・ジョルカエフは代表の試合には48試合出場しているが、そのうち後半の24試合には主将を務めている。1969年から1972年にかけての3年間はジャン・ジョルカエフがフランス代表の主将を務めており、親子二代のフランス代表主将となったのである。

■負傷のジダンの代役になれなかった2002年ワールドカップ

 しかし、ジョルカエフの代表での最後は少々残念なものであった。優勝候補として韓国に乗り込んだ2002年ワールドカップ、開幕直前にエースのジダンが負傷してしまう。ジダンの代役としてジョルカエフも候補の一人であるからこそスコットランド戦での途中交代とキャプテンマークがあったのだろう。ジョルカエフはジダンの代役として第1戦のセネガル戦ではゲームメーカーとして先発するが、先制点を許し、途中でクリストフ・デュガリーと交代してしまう。ジョルカエフはジダンの代役には失格となり、第2戦のウルグアイ戦はジョルカエフの出番はなかった。
 そしてジダンが故障を押して出場した第3戦のデンマーク戦、ジョルカエフはベンチで戦況を見守る。2点差で勝てば決勝トーナメントという厳しい条件の中でフランスは逆に2点を先行される。試合の趨勢がほぼ決まった83分にジルバン・ビルトールに代わって出場するが、何もすることはできず、フランスは韓国を去ることになった。そしてジョルカエフもフランス代表を去ることになった。
 フランス代表で活躍してきたジョルカエフであるが、代表へのデビュー戦ではワールドカップ予選出場を決められず、最後の試合はグループリーグでの敗退が決まるという悪夢のような試合で代表のデビューと引退を迎えたのである。(続く)

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