第679回 21年ぶりのアルゼンチン戦(6) フランスリーグとアルゼンチン人選手

■ワールドカップ優勝メンバーのホルヘ・ブルチャガ

 1986年春にパルク・デ・プランスでアルゼンチンと親善試合を行って以来、フランスとアルゼンチンとはワールドカップやコンフェデレーションズカップだけではなく、親善試合でも対戦する機会がなかったことは本連載第645回で紹介したとおりである。 この間、フランス、アルゼンチンともに1回、ワールドカップで優勝している。多くのアルゼンチン人選手が欧州で活躍しているが、もちろんフランスでも活躍している。
 まずその代表が1986年のワールドカップで優勝し、1990年ワールドカップで準優勝したホルヘ・ブルチャガであり、両大会時にナントに所属していた。フランスリーグに所属する選手として初めてワールドカップのチャンピオンとなったのがブルチャガである。ブルチャガはインデペンデエンテの一員として1984年のリベルタドーレスカップに優勝し、得点王にも輝く。その年の暮れに東京で行われたインターコンチネンタルカップに南米チャンピオンとして出場、イングランドのリバプールを下し、世界一になっている。その翌年に欧州に渡り、ナントに所属、リーグ優勝はできなかったものの、ディディエ・デシャンのプロデビュー時の主力選手であった。

■アジアと縁の深いガブリエル・カルデロン

 また、1990年のワールドカップ準優勝メンバーにはパリサンジェルマンのガブリエル・カルデロンも名を連ねていた。カルデロンは1979年に日本で行われたワールドユースにもディエゴ・マラドーナとともに出場しており、日本の皆様もよくご存知であろう。さらに2006年ワールドカップのアジア予選時にはサウジアラビア代表の監督として予選突破を果たしている。

■ディエゴ・マラドーナの獲得に失敗したマルセイユ

 その後もマルセロ・ガジャルドなどのアルゼンチン選手がフランスのサッカーファンを沸かせたが、フランスリーグにおける幻のアルゼンチン人選手がディエゴ・マラドーナであろう。マラドーナはカルデロンとともに出場した1979年ワールドユースでスターになり、1982年にスペインのバルセロナに移籍する。そして1984年にはイタリアのナポリに移籍する。マラドーナは不思議と所属クラブではタイトルから見放されているが、唯一ともいえるタイトルが1988-89シーズンのUEFAカップである。当時のチャンピオンズカップはリーグチャンピオンだけが出場し、UEFAカップには強国から複数のクラブが出場していたため、UEFAカップは欧州三大カップの中で最も難しいタイトルと言われていた。このタイトルを獲得することができたのはマラドーナの力によるのは言うまでもない。
 そのマラドーナを獲得しようと乗り出したのが、当時のマルセイユのベルナール・タピ会長である。大物会長として2部から復帰したばかりのマルセイユをフランスきってのビッグクラブにしたタピは1988-89シーズンのリーグ優勝を果たし、ファンを熱狂させる。そしてその勢いでマラドーナの獲得に乗り出したが、結局獲得に失敗してしまう。マラドーナはナポリに残留し、翌年はワールドカップで準優勝するが、その後は不幸な選手生活となる。

■マルセイユ戦で八百長事件を起こしたブルチャガ

 マルセイユも欧州の頂点まであと一歩が続き、1992-93シーズンのチャンピオンズリーグを制覇したと思ったが、八百長疑惑でタイトルを剥奪される。この八百長疑惑の主役となったのがナントから1992年にバランシエンヌに移籍したブルチャガである。ブルチャガは2年間の出場停止処分を受け、不遇な選手生活の晩年となり、故国アルゼンチンに戻り、再び欧州の地に戻ることはなかった。
 そしてその翌年の1994年には第675回で紹介したとおり、代表チームがキリンカップでアルゼンチンとの戦いが幻になる。1990年前後にフランスとアルゼンチンのサッカーの世界で起こったいくつかの事件が今日まで尾を引き、結果として21年間という対戦の空白につながっているのであろう。(続く)

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