第700回 リトアニア、オーストリアと連戦(6) 7度目の対戦でオーストリアに初勝利

おかげさまで第700回の連載を迎えることになりました。読者の皆様に改めて感謝するとともに、引き続きのご愛読をよろしくお願いいたします。

■ハプスブルク家からルイ王朝に嫁いだマリー・アントワネット

 欧州戦選手権予選で5試合目となるリトアニア戦に1-0で勝利したフランス、28日は予選の試合がないが、この機会を利用して親善試合を組んだ。勝利の翌日にはカウナスからナショナルラグビーセンターに戻ってきた。28日の親善試合の相手はオーストリアである。明らかにリトアニアよりも格上の相手であり、歴史を誇る国である。
 オーストリアとフランスは中世より様々なかかわりをしてきた。神聖ローマ帝国の流れを汲むハプスブルク家がこの地を統治した。一方フランスはブルボン家が支配していた。このハプスブルク家とブルボン家の対立は200年以上続き、欧州大陸の盟主を争っていた。ところがこの両家は18世紀の半ばに協力関係に転じる。これはハプスブルク家が新興勢力のプロイセンに負け、そのプロイセンがフランスと敵対関係にあった英国と急接近する。それまで反ハプスブルク勢力ということでプロイセンと近づいていたフランスであったが、そのプロイセンが英国と親密になるやいなや、プロイセンに裏切られたフランスはハプスブルク家を選ぶ。
 その結果が1756年のベルサイユ条約であり、ハプスブルク家のマリー・アントワネットのルイ15世の孫との婚姻である。ルイ15世の孫は後にルイ16世となりマリー・アントワネットは王妃となる。しかし1789年に起こったフランス革命でルイ16世もそして王妃マリー・アントワネットもギロチン台にかけられてしまうのである。

■第一次世界大戦後に成立したオーストリア共和国

 その後もオーストリア自身はハプスブルク家の支配が続き、オーストリア・ハンガリー帝国となる。フランスと同じ1904年にはサッカー協会が設立され、1907年にはFIFAに加盟する。しかし、フランスとはサッカーの世界では交流はなく、第一次世界大戦のきっかけを作る。1914年にボスニアの首都サラエボを訪問中のオーストリア・ハンガリー皇太子がセルビア人に暗殺され、オーストリア・ハンガリー帝国はセルビアに対し、宣戦布告する。これが第一次世界大戦の始まりである。
 ドイツ、オーストリア・ハンガリー、トルコ、ブルガリアの同盟国と英国・フランス・ロシアの連合国側に分かれた戦争となり、フランスとオーストリアはマリー・アントワネットの時代の前に戻り、敵味方に分かれる。連合国側には米国・日本なども加わり、第一次世界大戦は未曾有の犠牲者を出したのである。戦争は4年の長きにわたり、連合国側の勝利に終わるが、この第一次世界大戦により、オーストリア・ハンガリー帝国は解体し、オーストリア共和国となり、ハプスブルク家は追放されたのである。

■ナチス・ドイツに併合するまでにフランスと対戦、5戦5勝

 欧州の平和とともにオーストリア共和国が誕生し、サッカーの世界ではこの時代に初めてオーストリアとフランスは対戦する。1925年のパリでの対戦を皮切りに5試合行い、オーストリアが5戦5勝という戦績を残している。スポーツは平和な時代の象徴であるが、オーストリアとフランスの対戦は1937年で中断する。それはオーストリアが1938年にナチス・ドイツに併合されたからである。アドルフ・ヒトラー自身もオーストリアの出身であり、オーストリアは第二次世界大戦では同盟国側として再びフランスを含む連合国と戦う。

■占領下のオーストラリアと7度目の対戦でようやく勝利したフランス

 1945年のドイツ降伏後、オーストリアは米国・英国・フランス・ソビエト連邦によって分割占領される。フランスはオーストリア西部のチロル地方を占領し、首都ウィーンは4か国で分割して占領する。オーストリアが再び共和国として独立したのは1955年のことであるが、この占領時代の10年間にフランスはオーストリアと4試合を行っている。特筆すべきは1945年12月6日に占領中のウィーンを訪問して親善試合を行っていることである。この試合、敗戦国のオーストリアがフランスを4-1と下し、通算で6連勝を飾り、敗戦後の国民に勇気と希望を与えたのである。フランスのオーストリア戦初勝利はその翌年のコロンブでの対戦まで待たなくてはならなかった。フランスは7度目の対戦で初めての勝利をあげたのである。(続く)

このページのTOPへ