第1578回 タヒチ、コンフェデレーションズカップに出場(2) 世界への挑戦をしたタヒチのサッカー

 一昨年3月11日の東日本大震災で被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。また、復興活動に従事されている皆様に敬意を表し、東北地方だけではなくすべての日本の皆様に激励の意を表します。

■フランス本土でプレゼンスの高い海外県・海外領土の出身者

 本土以外に海外に海外県・海外領土を持ち、それぞれが自治権をもち、各方面において人材を輩出していることはフランスの持つ多様性のなせるわざであろう。
 サッカーの世界でも前回の本連載で紹介したとおり、多くの海外県・海外領土の出身者あるいはそこにルーツを持つ者がトップレベルのクラブやフランス代表で活躍している。フランスの人口に占める割合から言うならば、旧植民地から独立したアフリカ諸国の出身者あるいはその子孫よりも多いと言えるであろう。

■英仏が入島し、フランスの植民地となったタヒチ

 タヒチというとポール・ゴーギャンの印象が強く、フランス語圏であるということはよく知られているが、実はこの島を最初に発見したのは英国海軍のサミュエル・ウォリス、1767年のことである。そしてウォリスが他人を発見した10か月後にフランス海軍のルイ・アントワン・ブーゲンビルが訪れ、さらに英国海軍のジェームズ・クックも1769年に訪れ、南国の楽園は欧州人の入植が始まることになる。1797年には英国の宣教師団が入島し、さらにフランスからも宣教師団が入島し、土着の宗教をキリスト教が席巻するようになった。英仏が入島したが、結局この島を支配したのはフランスであり、1843年にフランスはタヒチの領有を宣言する。タヒチにはポマレ家が王族として君臨していたが、1880年にポマレ5世が主権をフランスに譲渡、この段階でタヒチはフランスの植民地となったのである。実にブーゲンビルが訪れてから112年後、フランス革命で本土に王政がなくなってから91年後のことである。そしてタヒチは太平洋地域において初めてのフランスの植民地となったのである。1946年には海外領、1958年には仏領ポリネシアとなった。
 フランスは植民地であるタヒチをリゾート地として開発してきたが、平和な光景だけではなかった。また第一次世界大戦中にはドイツ海軍によってパペーテ港が砲撃され、第二次世界大戦後は核実験の拠点となった。

■1952年に初めての国際試合、オセアニアカップで2大会連続準優勝

 タヒチも他の海外領と同様に自治権の拡大が進んでおり、その一つの姿が、サッカーのタヒチ代表チームの編成とFIFAへの加盟であると言えよう。タヒチ代表が初めて試合を行ったのは1952年のニュージーランド戦、その後は南太平洋大会に参加し、フィジーやサロモン諸島などと対戦したが、欧州にその存在を知らしめたのが1971年のことである。ウェールズの代表Bチームが太平洋を遠征、この時タヒチと対戦し、1-2と敗れたのである。オセアニアカップ(現在のオセアニアネーションズカップ)は1973年と1980年に行われ、いずれもニュージーランドに次ぐ2位となっているが、これらの大会には豪州が参加していなかった。

■1990年にFIFAに加盟、世界への挑戦

 タヒチのサッカーの歴史を変えたのが仏領ポリネシアリーグを率いていたナポレオン・スピッツ会長である。タヒチサッカー連盟を1989年に立ち上げ、FIFAへの加盟を申請する。1990年のワールドカップ・イタリア大会の直前に行われたFIFAの総会で承認され、オセアニアサッカー連盟にも加盟し、世界への道が開かれたのである。
 タヒチは1994年の米国ワールドカップの予選にエントリーする。記念すべき初めての公式戦は1992年7月11日のアウエーでのサロモン諸島戦であり、1-1のドローで発進する。またこの予選で最後のチケットをアルゼンチンとプレーオフで争った豪州とも対戦、パペートでのホームゲームでは0-3、ブリスベーンでのアウエーゲームでは0-2と連敗しているが、世界へあと一歩まで迫ったチーム相手にこのスコアは初出場としては十分な成果であり、サロモン諸島とは1992年10月9日のホームで勝利、これがタヒチの公式戦初勝利である。
 コンフェデレーションズカップへの出場権のかかる1996年のオセアニアカップは豪州も参加する。タヒチはホームアンドアウエー方式で行われた決勝に進出、豪州相手に0-6、0-5と連敗したが、パペートのオリンピックスタジアムには5000人の観衆が集まり、豪州、ニュージーランドがリードするオセアニアのサッカー界で存在感を見せたのである。(続く)

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