第2329回 追悼、アンリ・ミッシェル(6) カメルーン、モロッコでワールドカップ出場

 7年前の東日本大震災、一昨年の平成28年熊本地震などで被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。また、復興活動に従事されている皆様に敬意を表し、被災地域だけではなくすべての日本の皆様に激励の意を表します。

■1994年ワールドカップ米国大会前にカメルーンの代表監督に就任

 これまでで唯一の予選期間中の代表監督解任、初めてのクラブチーム監督となったパリサンジェルマンも1年でその座を退いたアンリ・ミッシェル。栄光との落差の大きな傷心の時代となったが、思わぬ転機が訪れた。
 1994年、フランスが本大会出場を逃したワールドカップ米国大会に出場するカメルーン代表の監督に就任する。テニスの名選手ヤニック・ノアの親戚から声がかかったものであり大会まで準備期間のない中で監督就任となった。1990年大会では開幕戦でアルゼンチンを破り、決勝トーナメントに進出するなど、期待を集めたカメルーンであったが、本大会でスウェーデンと引き分けたが、ブラジルに0-3、ロシアに1-6と大敗し、早々に米国を去った。

■5年間監督を務めたモロッコ

 しかし、この経験がその後20年に近い国外での監督業の始まりとなったのである。1995年にサウジアラビアのクラブチームのアルナスリの監督を務め、1995年には2つ目のアフリカの代表チームの監督としてモロッコの監督となった。
 モロッコでは5年間監督を務め、モロッコの輝かしい時代を築いた。当時はアフリカ選手権は偶数年の初めに行われていたが、1996年秋から始まった予選では無敗で首位突破する。1998年の1月から2月にかけてブルキナファソで行われた本大会ではグループリーグを首位突破し、決勝トーナメントに進出する。南アフリカに敗れたが、これはワールドカップでの活躍のプロローグとなった。
 ワールドカップ直前に行われたハッサン2世杯ではイングランドに惜敗、フランスにPK勝ちする。

■最後の最後で決勝トーナメントを逃した母国フランスでのワールドカップ

 そしてミッシェルは母国フランスで開催されるワールドカップで里帰りとなった。第1戦はノルウェー相手に2-2の引き分け、第2戦はブラジルに0-3と敗れる。最終戦を迎える段階でブラジルが勝ち点6でトップ、2位は勝ち点2のノルウェー、そして勝ち点1のモロッコとスコットランドという1強3弱の構図となり、2位争いがファンの関心を集めた。モロッコはサンテチエンヌでスコットランド戦、もう1試合のブラジル-ノルウェー戦はマルセイユで行われた。モロッコは前半に先制、後半も立ち上がりに追加点を決める。ブラジル-ノルウェーは無得点が続き、このままでいけばモロッコが2位に入る。そして78分にブラジルはベベットが78分に先制点、この時点でアトラス山脈のふもとのファンは決勝トーナメント進出を確信した。ところがノルウェーは83分に同点ゴール、さらに終了間際にPKで逆転勝ちをする。モロッコも追加点をあげて3-0と差を広げたが、勝ち点でノルウェーに及ばず、3位にとどまる。しかしながらこの戦いはモロッコ国民に大きな勇気と希望を与え、ミッシェルはハッサン2世国王から名誉市民の称号を与えられ、2000年までの5年間、代表監督の座にあったのである。

■低迷期のアラブ首長国連邦代表、アリス・テッサロニキの監督を務める

 モロッコ代表の次は初めてのアジアでの経験となった。2000年にレバノンで開催されたアジアカップの予選でウズベキスタンに敗れて本大会出場ができなかったアラブ首長国連邦の代表監督となる。この予選はアラブ首長国連邦のアブダビでセントラル方式で行われたが、ホームの利を生かせず、1980年大会にエントリーして以来、今まで唯一の予選落ちである。いわば暗黒時代のチームを引き受け、1年間監督を務めただけであったが、中東での経験はその後も中東やアラブアフリカでのクラブチームの指揮を執ることに役立った。
 アフリカの代表監督というイメージの強いミッシェルであるが、アラブ首長国連邦の代表監督の次のポストはギリシャのクラブチームのアリス・テッサロニキであった。このチームも2部落ちを経験するような低迷期にあり、この熱いファンを抱えるチームも1年で去る。ミッシェルにとってこれが最後の欧州での経験となったのである。(続く)

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