第2330回 追悼、アンリ・ミッシェル(7) コートジボワールを率い3度目のワールドカップ

 7年前の東日本大震災、一昨年の平成28年熊本地震などで被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。また、復興活動に従事されている皆様に敬意を表し、被災地域だけではなくすべての日本の皆様に激励の意を表します。

■ワールドカップ予選を勝ちながら本大会前に解任されたチュニジア代表

 ギリシャのアリス・テッサロニキの監督を務めたのを最後にアンリ・ミッシェルは欧州の地を去る。2001年には翌年のワールドカップ出場を決めたチュニジア代表の監督となる。ワールドカップ予選を突破したが、2002年1月にマリで行われたアフリカ選手権ではワールドカップに出場しないザンビアと引き分け、エジプトに敗れワールドカップに出場するセネガルとはスコアレスドロー、2分1敗という成績に終わり、ワールドカップを前にして代表監督の座を去る。
 その後はモロッコのラジャ・カサブランカの監督になる。2000年にはブラジルで開催されたクラブワールドカップにも出場しているモロッコの強豪チームであり、モロッコリーグで優勝している。

■才能軍団のコートジボワールを率い、ワールドカップ初出場を決める

 そしてミッシェルにとって最後のワールドカップとなったのが2006年ドイツ大会であった。ミッシェルは2004年にコートジボワール代表の監督に就任する。1994年に続いて2回目の監督となる。コートジボワールは2004年のアフリカ選手権では南アフリカに敗れ、予選落ちとなる。コートジボワールにとってアフリカ選手権に出場しないのはエントリーしなかった1982年大会以来のことであった。このチームの立て直しのためにミッシェルがコートジボワールに赴いた。コートジボワールは外国人の大物監督を積極的に起用するが、短命である。日本代表の監督を務めたフィリップ・トルシエ、バヒッド・ハリルホジッチという名前も歴代監督のリストにある。ミッシェルはこのチームで2年間、代表監督を務める。2006年のワールドカップ予選ではカメルーン、エジプトリビア、スーダン、ベナンを抑えてトップになり初のワールドカップ出場を決める。そして2006年の1月から2月にかけてエジプトで行われたアフリカ選手権では見事に決勝に進出、決勝ではPKで開催国のエジプトに敗れるが、準優勝を果たす。
 この時のコートジボワールの主力はディディエ・ドログバである。当時ドログバはイングランドのチェルシーに所属していたが、ルマンでプロデビューし、ギャンガンで頭角を現し、マルセイユで活躍したメイド・イン・フランスの選手である。ミッシェルは23人のリストのうち13人をフランスのクラブに所属する選手で固める。ドログバ以外にもヤヤ・トゥーレ、バカリ・コネなど才能にあふれた黄金世代の選手が集まった。

■期待を集めたが、アルゼンチン、オランダに敗れる

 期待を集めたチームであったが、グループCでアルゼンチン、オランダ、セルビア・モンテネグロという厳しいグループに入ってしまった。第1戦でアルゼンチンに1-2、第2戦でオランダに1-2と連敗し、ようやく最終戦でセルビア・モンテネグロに3-2と勝利したが、選手の才能が世界の強豪のアルゼンチンとオランダの経験には追いつかなかったのであろう。その差を埋めるのは監督の仕事であったが、わずかに及ばず、悔しかったとミッシェルは述懐している。

■赤道ギニア、ケニアを去り46年ぶりに故郷に帰る

 その後は、世界の檜舞台に登場することはなかった。中東やアフリカのクラブチームの監督を歴任するとともに、代表監督を3回務めた。
 まず、2007年から2008年にかけてモロッコ代表、アフリカ選手権ではグループリーグで敗退している。続いて赤道ギニアの監督に2010年暮れに就任する。赤道ギニアは2012年のアフリカ選手権をギニアと共同開催し、同国史上初のフランス人代表監督であったが、思うような成績が残せず、本大会を直前に控えた2011年の暮れに監督の座を辞す。
 そして2012年にはケニア代表の監督となる。これまでサッカーの世界では実績を残していない国である。大きなチャレンジであったが、協会との契約の問題に加え、病気治療のため、4か月で辞任する。
 2012年暮れにケニアを去ったミッシェルは生まれ故郷のエクス・アン・プロバンスに戻る。16歳でナントに旅立ってから実に46年ぶりの里帰りであった。
 4月24日、70歳で息を引き取り、エマニュエル・マクロン大統領が追悼のメッセージを寄せ、フランスサッカー連盟は5月28日のアイルランド戦を追悼試合とすると決定した。光と影のコントラストがあまりにも対照的な人生、心からお悔やみを申し上げたい。(この項、終わり)

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