第2643回 追悼、ミッシェル・イダルゴ(1) 低迷期に代表監督に就任

 平成23年の東日本大震災、平成28年熊本地震、平成30年7月豪雨、昨年の台風15号、19号などで被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。また、復興活動に従事されている皆様に敬意を表し、被災地域だけではなくすべての日本の皆様に激励の意を表します。

■欧州選手権優勝監督ミッシェル・イダルゴ、87歳で亡くなる

 前回の本連載ではマルセイユの元会長のパペ・ディウフが新型コロナウイルスに感染して亡くなったことを紹介したが、今回も連続して悲しいお知らせを紹介しなくてはならない。かつてのフランス代表監督のミッシェル・イダルゴが3月26日にマルセイユで87年の生涯に別れを告げた。
 イダルゴは1976年から1984年までの間フランス代表監督であり1984年の欧州選手権で優勝を果たし、花道を飾った。地元開催での優勝であったが、それに至るまでの道のりは厳しく、イダルゴの監督としての卓越した手腕なしには成し遂げられなかったであろう。

■ルアーブル、スタッド・ド・ランス、モナコでプレー

 イダルゴの父親はスペイン人の工場労働者であり、フランス人の母との間で双子として生まれた。フランス北部で育ち、双子の兄弟とともにプロ選手となる。MFとしてルアーブル、スタッド・ド・ランス、モナコに所属し、リーグ優勝、フランスカップ優勝も経験し、フランス代表として1試合、45分間だけ出場している。
 選手としてある程度の業績を残したイダルゴであったが、1964年にはフランスプロサッカー選手協会の会長に就任し、1966年にはプロから引退し、アマチュア選手となったが、イダルゴは1969年までこのポストにあった。

■フランスのスポーツが低迷した1960年代

 1960年代のフランスは、サッカーだけではなく他のスポーツも低迷期であった。スポーツ全体としては1960年のローマオリンピックでは金メダルを獲得できず、1964年の東京オリンピックでも金メダルは馬術の障害飛越個人でピエール・ジョンケール・ドリオラが獲得したわずか1つに終わり、近代オリンピックを提唱したピエール・ド・クーベルタンの国としての面目はつぶれた。
 また、東西冷戦下でフランスのイニシアチブで創設された第1回の欧州選手権、準決勝以降は1960年にフランスで行われたが、フランスは準決勝でユーゴスラビア、3位決定戦でチェコスロバキアに敗れ、実質最下位であった。
 フランス代表は1960年代まで専任の監督を置かず、大会がある都度、監督を指名してきた。1964年の欧州選手権も準々決勝でハンガリーに敗れ、本大会に残ることができなかった。この敗退を受け、1966年のワールドカップイングランド大会に向け、初めての常任の監督としてサンテチエンヌのアンリ・ゲランがコーチから昇格する。ゲランの下でフランスは、予選を突破し、2大会ぶりに本大会に出場するが、イングランドでは惨敗する。この惨敗を受けてフランスは各クラブの育成を強化することになった。そしてゲランは退任し、ナントのジョゼ・アリバとサンテチエンヌのジャン・スネラにその座を譲る。共同監督制を敷いたが、わずか2月で退任、後任には1958年ワールドカップの得点王であり、当時のフランス代表最多得点者であったジュスト・フォンテーヌが就任する。現役引退後、監督、指導者の経験のなかったフォンテーヌの率いるチームは親善試合で連敗し、フォンテーヌも更迭される。後任のルイ・デュゴーゲズは1年以上監督の座にあったが、1970年メキシコワールドカップの出場権を逃す。
 のちにフランスサッカー連盟の会長となるジョルジュ・ブーローニュが1974年のワールドカップ西ドイツ大会を目指すが、予選最終戦でソ連にモスクワで敗れ、またも本大会出場を逃し、ブーローニュも辞任する。

■戦後初の外国人監督起用も実らず、欧州選手権予選敗退

 2大会連続でワールドカップ出場を逃したフランスは1973年秋はルーマニア人のステファン・コバックをオランダのアヤックス・アムステルダムから代表監督に招聘する。フランス代表の外国人監督は1930年のイングランド人のジョージ・キンプトン以来の2人目であり、第二次世界大戦後は初めての外国人監督として期待された。しかしコバックは1976年の欧州選手権予選で敗退、政治的な動きもあり、解任され、後任がイダルゴとなったのである。(続く)

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