第2647回 追悼、ミッシェル・イダルゴ (5) 南米遠征で二強とドロー

 平成23年の東日本大震災、平成28年熊本地震、平成30年7月豪雨、昨年の台風15号、19号などで被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。また、復興活動に従事されている皆様に敬意を表し、被災地域だけではなくすべての日本の皆様に激励の意を表します。

■1971年にアルゼンチン遠征、1972年にはブラジル独立カップに参加

 若手主体のチームでスイスに圧勝したフランス、続く活動は6月の南米遠征である。翌年のアルゼンチンでの本大会出場を見据えた意欲的な遠征となる。
 フランスが南米の地で試合を行うのは1930年にウルグアイで行われた第1回のワールドカップが最初でこの時はワールドカップで敗退した後にブラジルを訪れ、ブラジルと試合を行っている。その次は1971年まで待たなくてはならず、年の初めにアルゼンチンを訪問し、2試合行っている。その翌年の1972年にはブラジル独立150周年を記念したブラジル独立カップに出場する。この大会は南米だけではなく、欧州からフランスを含む7チーム、アジアからはイラン、中南米カリブ海とアフリカは大陸選抜チームを送り込んできた。20チームで争われる大会でその規模は当時のワールドカップ、欧州選手権を上回るものであった。フランスはグループリーグで中南米カリブ海選抜、アフリカ選抜、コロンビアに3連勝したが最終戦のアルゼンチン戦はスコアレスドロー、得失点差でアルゼンチンを下回り、決勝トーナメント進出を逃す。

■アンリ・ミッシェルとマリウス・トレゾールが復帰した南米遠征

 1977年のアルゼンチンとブラジルとの対戦は4回目の南米遠征であり、南米の二強であるアルゼンチンとブラジルを転戦するのはこれが最初で最後である。翌年のワールドカップ出場を見据えたミッシェル・イダルゴ監督は19人のメンバーを連れていく。特筆すべきことであるが、負傷して離脱していたマリウス・トレゾール、ミッシェル・プラティニの台頭によってゲームメーカーの座から離れていたアンリ・ミッシェルを復帰させた。この2人とGKのドミニク・バラテリを加えた3人が代表経験が二桁、残りの16人は代表歴一桁という若手主体のチームである。また、2試合ではあるが遠征ということで若手選手の発掘のチャンスとなりうるが、これまでの試合で常に新人を起用してきたイダルゴ監督が連れて行った新人はわずか1人、ジャック・ジマコだけである。ジマコはニューカレドニア出身として初めての代表選手である。

■ワールドカップ開催を翌年に控えたアルゼンチンとドロー

 南米遠征の第1戦はアルゼンチンが相手、ワールドカップ開催を控えたアルゼンチンへの国民の期待は高く、ブエノスアイレス、ボンボネラ競技場には4万人のファンが集まった。翌年のワールドカップでヒーローとなるマリオ・ケンペスはこの時点では代表入りしていなかったが、ダニエル・パサレラ、レオポルド・ルーケなどの名が並ぶ。一方のフランスであるが、ミッシェルが先発して主将を務める。ミッシェルはイダルゴ監督の就任後初戦のチェコスロバキア戦に出場して以来1年3か月ぶりに代表のユニフォームを着る。また、毎試合のように試合で代表デビューする選手がいたが、この試合でもジマコが途中出場する。ジマコはニューカレドニア出身の選手として初めて代表の試合に出場した選手となった。試合は結局スコアレスドローとなったが、フランスは強豪相手に手ごたえをつかんだ。なお、ベテランのミッシェルはこの試合がこの19977年の最初にして最後の試合となり、結局ワールドカップ予選には出場しなかった。

■王国ブラジルに2点先行されたが、追い付いたフランス

 その4日後、フランスはブラジルに移動し、リオデジャネイロのマラカナンでブラジルと対戦する。この試合は83,535人の観衆が集まる。そして現在に至るまで唯一フランス代表がブラジル代表とマラカナンで戦った試合である。イダルゴ監督は先発メンバーを6人入れ替えた。また、ブラジルの誇る中盤のリベリーノにはオマール・サヌーン、パオロ・イシドロにはドミニク・バテネイをつけて中盤の底を固める。また、アルゼンチン戦で負傷したミッシェルをメンバーから外し、プラティニが中盤の攻撃を支える。
 試合はブラジルが30分に先制、後半に入って51分にも追加点をあげる。しかし、2点目を奪われた直後、52分にディディエ・シスが1点を返し、85分にマリウス・トレゾールがCKをヘディングで決め、同点に追いつく。
 フランスは南米の強豪相手に2試合ともドローで自信を深めたのである。(続く)

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