第203回 ローランギャロス2003(1) マイケル・チャン、モニカ・セレシュ、最後の赤土

■スポーツイベントが盛りだくさんの5月から6月

 5月から6月のフランスはスポーツイベントが目白押しである。サッカー以外の多くのボールゲームもシーズン大詰めを迎える。特にフランスのスポーツファンの耳目を集めたのはフランス勢同士で争い、トゥールーズがペルピニャンを破って優勝したラグビーの欧州クラブ選手権決勝である。また、球技以外でもF1のモナコ・グランプリ、フランスのダービーにあたるジョッキークラブ賞などもこの時期に行われ、紹介したいイベントは数多くあるが、やはりテニスのフレンチオープンを紹介しないわけにはいかない。予選に引き続き5月26日から6月8日まで2週間にわたって行われるこの大会はテニスの四大大会の一角であり、パリのローランギャロス・テニスコートで開催されることから、ローランギャロスと呼ばれることが一般的である。

■ヤニック・ノアの優勝から20年、関心の高まるパリジャン

 サッカーの世界では、マルセイユが欧州チャンピオンズリーグを制覇してからちょうど10年ということで、マルセイユのファンが熱狂したが、ローランギャロスでも今年はヤニック・ノアが男子シングルスで優勝してからちょうど20年にあたる。近年、デビスカップでフランスが好成績を上げていることもあり、パリジャンの関心が例年に比べて高くなったのである。

■マイケル・チャン、思い出のローランギャロスと惜別

 今年は大会が始まって2日目の5月27日、歴史の転換を感じさせる試合が2試合あった。まずは男子シングルスに主催者推薦で出場したマイケル・チャンがセンターコートにあたるフィリップ・シャトリエの最終ゲームに姿を現す。米国人のチャンは1989年のローランギャロスで優勝、当時わずか17歳3か月であり、これはいまだに破られていない四大大会最年少優勝記録である。革命200年祭を控えて異様な盛り上がりを見せた大会で、決勝の相手はスウェーデンの貴公子ステファン・エドバーグ。エドバーグをフルセットの末振り切って果たした優勝はセンセーショナルであった。年齢だけではなくプレースタイルも注目を集め、ムッシュー・チャンはニューヒーローを求めていたパリのアイドルとなった。そのチャンもその後は1995年大会で決勝進出したがオーストリアのトーマス・ムスターの前に屈し、他の四大大会でも優勝することはできず、唯一の四大大会優勝となってしまった。31歳となり、世界ランキングも150位前後まで落ちたチャンは引退の声も聞かれたが、やはり思い出の地、ローランギャロスに戻ってきた。皮肉なことにチャンの対戦相手はフランス人のファブリス・サントロ。チャンと同じ1972年生まれである。このドローにはチャンを見たいと駆けつけたファンも当惑したであろう。試合はサントロがストレートでチャンを破る。破れたチャンはこれが最後の赤土の上での試合となったが、試合終了後、2人はチャンが優勝した1989年大会のポスターを掲げて記念撮影を行い、スタンドのパリジャンは郷愁にひたったのである。

■女王モニカ・セレス、四大大会で初の1回戦負け

 一方、ナンバー3のコートにあたる第1コートの第4ゲームにはモニカ・セレシュが姿を現す。セレシュは1990年大会の女子シングルスで優勝を飾っている。セレシュは四大大会初制覇、そしてこのときわずか16歳6か月。男子のチャン同様、四大大会の最年少優勝記録を保持しているのである。そして1991年、1992年とローランギャロスで3連覇を果たし、現在も世界ランキング12位である。29歳になり第12シードとして臨んだ今大会の初戦の相手は世界ランキング74位のロシアのナディア・ペトロワ。第1セットは4-2とリードしながら、4ゲームを連取されて4-6で落とす。そして第2セットは0-6と1ゲームもとることができず、1回戦敗退。四大大会出場40回目にして初めて1回戦敗退となったのである。実はセレシュは両足を負傷しており、これが最後の四大大会となる可能性は強い。
 チャン、セレシュ、この2人を世界の頂点に送り込んだローランギャロスでは、郷愁にふける間もなく、赤い砂埃が連日立ち上がるのである。(続く)

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