第68回 連覇を目指す23人(4) ジャン・ピエール・パパンを超えろ、ジブリル・シセ

■西ドイツとの死闘の主役、ジャン・リュック・エトリ

 アジアへの出発の前日のベルギー戦でデビューしたジブリル・シセを語るに当たり、代表歴が少ない状態でワールドカップ本大会を迎え、その大会で成長していった過去の事例に注目してみよう。
 まず、1982年スペイン大会のGKジャン・リュック・エトリをあげることができる。準決勝の西ドイツ戦との死闘の末のPK戦での敗退が記憶に新しいエトリであるが、実はエトリはこの大会の初戦である6月16日のイングランド戦が代表3試合目、しかもそれまで出場した2試合は親善試合であった。エトリの代表デビューは予選で敗退してしまった欧州選手権を控えた時期に行われた1980年2月27日のギリシャとの親善試合である。この試合の後半からエトリは出場し、無得点に押さえるが、その後長らくエトリは代表チームのゴールを守ることはなかった。

■フランスカップと日程が重なった代表の親善試合で復帰

 ところが、スペインでのワールドカップを目前にした1982年5月14日のリヨンでのブルガリアとの親善試合で思わぬことからエトリが久しぶりの代表GKとなる。この試合とフランスカップの日程が隣接し、フランスカップで勝ち残っていたサンテエチエンヌとパリサンジェルマンの選手が代表チームに加わることができなかった。9人の選手がフランスカップのため代表チームを離れたのであるが、その中に2人のフランス代表GKが含まれていた。サンテエチエンヌのジャン・カスタネダとパリサンジェルマンのドミニク・バラテリである。その結果、エトリが代表に招集され、ブルガリアとの試合をスコアレスドローで乗り切ったのである。
 続くウェールズとの親善試合の出場はカスタネダに譲ったものの、本大会で強豪イングランドとの初戦のゴールを任される。1-3と負けたが、この大会、準決勝の西ドイツ戦まで6試合連続してフル出場したのである。(3位決定戦はカスタネダが出場)イングランド戦では失点したものの、その後の試合では安定した守りを見せる。準決勝の3失点とPK負けは痛恨の極みであったが、エトリはこの大会で大きく成長したのである。

■初戦のカナダ戦で決勝ゴールを決めたパパン

 そしてシセと同じポジションの選手をあげるならば1986年メキシコ大会のジャン・ピエール・パパンである。パパンは1980年代から1990年代にかけてフランスだけではなく欧州を代表するストライカーであり、「サッカークリック」などで何回か紹介している。
 パパンの代表デビュー戦は1982年2月26日の北アイルランドとの親善試合。6月1日のワールドカップ初戦のカナダ戦は代表2試合目である。シード国のフランスも初戦と言うことで緊張気味の試合であり、両チーム無得点で試合終盤を迎えたが、79分にこの試合唯一の得点をあげたのがパパンである。このパパンの得点による勝利が2大会連続の準決勝進出のスタートとなっていったのである。

■最盛時にワールドカップに縁のなかったパパン

 ところがパパンとワールドカップの関係は必ずしも恵まれたものではない。スペイン大会ではカナダ戦でフル出場し、決勝点をあげたものの、続くソ連戦、ハンガリー戦とも先発出場しながら試合終盤に交代し、いずれも無得点であった。また決勝トーナメントに進出してからはベンチ入りメンバーからも外れており、イタリア、ブラジル、西ドイツという強豪相手にその能力を発揮することはできなかった。ベルギーとの3位決定戦ではフル出場し、パパンらしくブルーノ・ベローヌからのセンタリングから得点している。この得点はパパンのその後のワールドカップでの活躍を十分に予見させたが、1990年イタリア大会、1994年米国大会と2大会連続して予選落ちし、最盛時に世界の桧舞台を踏むことはなかった。
 そして2002年ワールドカップ、右腕に漢字で「美」と刺青をしているシセが韓国と日本で活躍する。昨シーズン1試合当たり0.76点と言う驚異的な得点力は5月22日に行われた東洋のマンチェスター・ユナイテッドと言われる浦和レッドダイヤモンズの守備陣を混乱に陥れたことからも実証済みである。フランス代表の背番号9はシセである。パパン以来背番号9がふさわしい選手は輩出されていない。シセがフランス代表の背番号9をつけ、パパンをしのぐ活躍をするとき、フランスには栄冠が輝くのである。(続く)

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