第380回 アイルランドと5度目の対戦 (1) アイルランド自由国、エールからアイルランド共和国へ

■不本意な結果の9月の2試合

 8月に船出したレイモン・ドメネクの新生フランス代表。主力選手が大量に引退し、8月に親善試合を1回行っただけでワールドカップ予選を迎えた。すでに本連載でご紹介したとおり、第1シードとなったワールドカップ予選ではホームでイスラエルとスコアレスドロー、第2戦のフェロー諸島戦はアウエーで2-0と辛勝、負けこそないものの、イスラエルが第4シード、フェロー諸島は最下位の第6シードであることを考慮すれば、ファンにとっては不本意な結果である。10月の戦いはまず9日にスタッド・ド・フランスでアイルランド、そして13日にはアウエーでキプロスと対戦する。アイルランドは第2シード、キプロスは第5シードであるが、9月のフランス代表の戦いを振り返ってみれば、シードはフランスの相手を恐れさせるに至らない指標である。
 キーポイントとなるのは最初に対戦するアイルランドである。2年前のワールドカップでは日本で戦い、日本で最も人気のあるサッカーチームと同じチームカラーであることから日本でもファンが多いようである本連載第367回でも紹介したとおり、フランスはアイルランドとは今まで4度ワールドカップ予選で同じグループに入り8回対戦しているが、それ以外に2回親善試合を行っている。最初の対戦は1952年の親善試合、そして最後の戦いは1989年の親善試合である。

■英国の支配下にあった400年間

 しかし、フランスは1952年以前にもアイルランドと対戦している。ここで、この国の持つ特有の歴史を紹介しなくてはならない。15世紀、16世紀に栄華を誇った英国はアイルランドがスペインと組むことを何よりも恐れた。英国はアイルランドがスペインの手に落ちないよう、先手を打ってアイルランドに侵攻、アイルランド各地に英国は支配拠点を置き、実質的にアイルランドは英国に支配されることになった。英国はアイルランドが経済的に自立しないような政策を採り、アイルランドの農業、工業は大きく遅れを取った。400年以上にわたる英国のアイルランド支配が終わったのは1922年のことであった。

■フランスとの初対戦はアイルランド自由国、初勝利はエール共和国

 20世紀初めからアイルランドでは独立の気運が高まり、1919年からアイルランドでは独立戦争が始まり、1922年に独立戦争が収まって、カトリック教徒が住民の大部分を占める南部26県が「アイルランド自由国」として独立をしている。このアイルランド自由国は1928年にパリ近郊のモンルージュでフランスと対戦している。これが実は両国の初対戦である。初対戦はフランスが4-0と大勝するが、2度目の対戦は対戦相手の名前が変わっている。新憲法が施行された1937年にアイルランド自由国はエール共和国と国名を変更している。フランスはコロンブにエールを迎えるが、エールは2得点をあげて国民の期待に応える。

■新生アイルランド共和国との初戦はドロー

 第二次世界大戦でエールは中立を維持、エールに大きな変化が起こったのは欧州に平和が訪れた第二次世界大戦後の1949年である。この年にエールはアイルランド共和国として独立、あわせて英連邦から脱退することになる。この結果、アイルランド島の南部はカトリック系住民中心のアイルランド共和国として独立、プロテスタント系住民の多い北部はは英国の一部として英国に帰属することになった。アイルランドの国旗はフランス同様の三色旗であるが、左から緑、白、オレンジと並んでいる。緑はカトリックを表し、オレンジはプロテスタントを表す。そして中央の白は平和を表している。
 英連邦から独立した国として、英国に対する対抗心がないわけではない。そしてフランスも同様にカトリック中心の国である。1951年には独立を推進してきたイーモン・デバレアが共和国の首相に復帰、この新しい共和国の誕生を同じ共和国のフランスが歓迎しないわけはない。1952年にはフランスがダブリンを訪問し、アイルランドと対戦する。共和国同士の初対戦は、前半にロベール・ジョンケのオウンゴールでアイルランドに1点を献上、後半にフランスのロジェ・ピアントーニのゴールで追いつきドローとなった。その後、ワールドカップ予選では両国はしばしば顔をあわせることになったのである。(続く)

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