第38回 ジャイアントキリング続出のフランスカップ

■白熱する2つの国内カップ戦

 年があらたまってからのフランスのサッカーシーンは少し変わる。リーグ戦については各チームそれぞれの順位に応じた目標を掲げる。すなわち、優勝を狙うチーム、UEFAカップ出場をうかがうチーム、そして不本意ではあるがなんとか1部残留を、と願うチーム。また、欧州三大カップもベスト8が出そろい、マルセイユ、ボルドー、リヨンの3チームは「ヨーロッパの頂点」を狙う。
 その一方、新年を迎え、心機一転という戦いが国内のカップ戦である。リーグカップ、フランスカップとも昨年からすでに戦いが始まっているが、1部リーグの18チームは年明けから参戦することになる。3部リーグにあたるナショナルリーグ以上の58チームで争われるリーグカップの歴史は浅い。しかし、優勝チームにUEFAカップ出場権が与えられるようになってから戦いも白熱してきた。リーグ再開に先立ち1月9日、10日に1部リーグのチームを加えてベスト16決定戦、2月1日から3日にかけてベスト8決定戦が行われ、パリサンジェルマンなどが勝ち進んだ。
 そして伝統のフランスカップはベスト32決定戦(1/32ファイナル)が1月22日と23日に行われた。オープンのカップ戦であり、7000以上のチームにチャンスがある。しかしながら、普通のチームにとって夢のビッグクラブと対戦するためには、数回幸運を重ねなくてはならない。年末に行われた8回戦を勝ち抜いた46チームに1部18チームが加わり、抽選を行う。当然1部リーグ同士の対戦もあれば下位リーグ同士の対戦もある。しかしなんといっても興味深いのは、下位リーグのチームが「ジャイアントキリング」を狙ってビッグクラブと対戦するカードである。

■「おらがクラブ」がビッグクラブに一泡吹かせることを夢見て

 ベスト32決定戦の組み合わせ抽選は、1月5日にワールドカップ優勝監督のエメ・ジャケによって行われ、1部同士の戦いは「メッス-ボルドー」戦と「マルセイユ-オセール」戦の2試合、残りの14チームは下位リーグのチームの挑戦を受けることとなった。
 ベスト32決定戦では1部リーグのチームが下位リーグのチームと戦う場合は原則として下位リーグのチームのホームで戦う。フランスカップは1989年までは準決勝以下の試合はホームアンドアウエーで行われていたが、1990年代に入ってからはすべての試合が1回戦制になっている。したがって、下位チームにとっては地元の大声援の中での一発勝負であり、番狂わせの起こる可能性も高くなる。
 この組み合わせによっては、「おらがクラブ」が夢のビッグクラブに一泡吹かせる歴史的瞬間を見るために、通常では考えられないような数の観衆が集まることがしばしばある。したがって、下位チームは近隣にある収容人員の多い競技場で試合を開催することがある。下位リーグのチームが1部リーグのチームを迎えて行う14試合のうち6試合は、通常のホームゲームを行う競技場とは別の競技場で試合が行われた。

■1部リーグのクラブの半数が初戦で消えた

 さて、2日間にわたって行われた初戦であるが、初日から事件が起こった。前年の覇者パリサンジェルマンは2年連続して3部リーグにあたるナショナルリーグのツアールと対戦した。ツアールは首都のビッグクラブを迎えるため、約70キロ離れたアンジェのジャン・ブーアンスタジアム(収容人員2万人)を使用した。パリサンジェルマンは前週のリーグ再開のホームゲームでナンシーに負けたばかりだが、ツアールは昨年も3-1で勝った相手。濃霧のため両チームの識別をしやすくするよう、試合前にパリサンジェルマンは地元クラブのSCOアンジェの白いユニフォームを着用するよう指示された。試合は、パリサンジェルマンが2-0とリードした65分、ラヤック主審が濃霧のため中断を宣言し、再試合となった。パリサンジェルマンの勝利は文字通り霧の中に消えてしまったのである。
 さらに、2日目にはジャイアントキリングが続出し、結局9つの1部チームが初戦で去った。1932年にプロリーグが発足してから1部のチームはベスト32決定戦からフランスカップに挑むが、9チームが敗退したのは新記録である。従来の記録は1980年と1994年の8チームであるが、これは1部が20チームの時代の記録である。1部のチームを18に絞った今年は半数のチームが初戦で敗退したことになる。1970年代以降1部リーグ20チーム体制が続いたが、初戦敗退は5チーム前後の年が多い。
 また、特筆すべきはナショナルリーグ以下のチームがベスト32に13チームも残ったことである。これは1949年と並んで最多記録である。

■ジャイアントキリングにはいくつかの理由がある

 ジャイアントキリングはどこの国のカップ戦でもありうる。事実、1部リーグのチームがすべて初戦を突破したという順当な年は第五共和制以前の1957年までさかのぼらなくてはならない。
 それではなぜこのような結果になったのであろうか。まず考えられることは試合が一発勝負になり下位チームのホームで試合が行われることが指摘できる。しかし、これは10年前から始まったことである。もう一つ言えることは、「ボスマン判決」以降のフランスのサッカー界の戦略が選手の育成に力点を置くようになったため、トップリーグのチームだけではなく下位リーグのチームもアマチュア選手の育成が進み、格差が縮小してきたことである。
 さて、ジャイアントキリングの続出した今年のフランスカップのベスト32決定戦であったが、ドラマは続く。濃霧のため中断、再試合となったツアール-パリサンジェルマン戦が、2月9日にポワチエに舞台を移して行われるのだ。

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