第86回 バスティアに戻ったアントネッティ

■バスティアを支える青年監督

 世紀をまたがって行われている今シーズンのフランスリーグ。11月4日の第14節を終えて、ガンガンに3-0で勝ったスダンがパリサンジェルマンに代わって首位に躍り出た。本連載第84回でご紹介したとおり、シーズン序盤にはバスティアがトップを走っていたが、第14節でランスに0-4で敗れ、7位に落ちた。しかしながら、まだ首位復活は十分に考えられる。コルス島を代表するこのクラブを支えているのは、今回紹介する青年監督フレデリック・アントネッティである。この名前を覚えている日本のファンの方々も多いであろう。現在Jリーグで快走しているガンバ大阪で、1998年から1年半にわたり監督を務めたあのフランス人である。
 アントネッティはJリーグがちょうど発足5周年を迎えた1998年5月15日にガンバ大阪の監督に就任した。日本代表がフランスに向けてアジア最終予選で苦戦をしていた前年10月初めに監督就任が内定している。監督内定から就任まで7か月以上経過しているのを不思議に思われる方も少なくはないであろう。内定当時アントネッティはバスティアの監督を務めており、1997-98のシーズン閉幕を待ってガンバ大阪の監督に就任したからである。監督就任第1戦は1998年5月16日のヤマザキナビスコカップ1回戦で、横浜フリューゲルスと三ツ沢で対戦し2-0で初陣を飾った。この年限りで姿を消した横浜フリューゲルスのリーグカップ最後の試合となったのである。
 アントネッティのガンバ大阪での監督生活は、1998年のリーグ戦はワールドカップのための中断が開けた第1ステージ13節(7月25日)のジュビロ磐田戦から始まった。このシーズンは、22戦して8勝14敗、年間総合成績は18チーム中15位であったが、前年の好成績(17チーム中4位)に救われ、J1参入決定戦への出場を危うく逃れた。また2年目の1999年は第1ステージ6勝9敗(16チーム中10位)にとどまり、第2ステージからは監督を早野宏史に譲っている。

■グランパスも注目したアントネッティの育成能力

 以上のように、日本での成績は芳しいものではなかったが、フランスの若手監督の中では最も期待されている監督であると言っても過言ではない。もともと1997年の秋の段階でガンバのクゼ監督(クロアチア)の後任として名前が挙がったのは、1997年シーズン終了後にナントの監督を辞したばかりのジャン・クロード・スオドーであった。
 スオドーはナントで若手選手を育て、1994-95シーズンにはリーグ新記録の32戦連続無敗でチームを11年ぶりの優勝に導いた。当時から若手育成に定評があり、稲本潤一、宮本恒晴などの自前で育成した選手を中心とするガンバ大阪のチームカラーにはふさわしいと思われたが、結局同じように若手育成に定評のあるバスティアの監督のアントネッティが大阪入りした。
 ちなみに、ガンバ大阪だけではなくポルトガル人のカルロス・ケイロス監督の後任を探していた名古屋グランパスエイトも、アルセーヌ・ベンゲルの成功の再現を求めてアントネッティを狙っていた。

■トップクラスの選手としては大成せず、指導者の道へ

 アントネッティは、1961年8月19日にコルス島のベンゾラスカで生まれた。バスティア入りしたのは1972年、1979年にはINFヴィシーに登録し、エリートコースを歩むことになる。3年間のヴィシーでの生活の後、研修生としてバスティアと契約を結んだ。
 コルス出身の同世代のサッカー選手というと、現在フランス代表のGKコーチを務めているブルーノ・マルティニ、1996年欧州選手権でスタンバイGK(登録GKに負傷者がでた場合に追加登録できるGK)となったパスカル・オルメタが思い出されるようにGKの宝庫であるが、アントネッティのポジションはMFであった。
 彼は、1983年にはベジエ、1985年にはル・ピュイと2部リーグのチームに移籍し1987年に故郷バスティアに戻ってくる。しかし、若年時代は見事な経歴を誇るアントネッティも1部出場はわずか2試合だけであった。アントネッティは指導者への道を選び、1991年には下部組織のアシスタントとなり、三軍の指揮をとる。翌年には育成機関の責任者となっている。自らが若年時に華々しい道を歩みながら、その後プロになってから不遇な生活を送ったことがアントネッティに若手育成の道を選ばせたのであろうか。アントネッティは次々と自らが育成した選手を次々とトップチームに昇格させた。

■インタートトカップを勝ち抜き、UEFAカップで見事な戦い

 そしてアントネッティが育てた選手が成長し名門バスティアが8年ぶりに1部に返り咲いたのは、ワールドカップ・アメリカ大会が終了したばかりの1994年夏のことであった。レオンス・ラバーニュ率いるバスティアにとって1部の戦いは楽ではなく、10月にホームでレンヌに1-2と敗戦を喫した後、アントネッティが監督に就任することになった。時にアントネッティ33才。選手の良き兄貴分として育成機関時代から選手を熟知しており、チームは15位で1部残留を決めた。
 監督就任2年目の1995-96シーズンも15位、そして3年目には7位となり、インタートトカップに出場して難関を突破し、4年目には見事UEFAカップに出場する。1997年9月にはポルトガルのベンフィカと対戦しホームで1-0、アウエーで0-0という理想的なスコアで7年前のマルセイユの仇を討つ。続くベスト16決定戦ではルーマニアのステアウア・ブカレストと対戦した。まずアウエーは0-1と最少得点差で乗り切り、ホームでの逆転勝ちを逆狙ったが、ホームでの試合は前半に2点を先行される苦しい戦い。しかし後半に入り53分、69分、78分に立て続けに得点し、逆転。アウェーゴール2倍ルールであと1点を望む1万1000人の観衆の願いも叶わず敗退するが、見事な戦いぶりであった。すでにこの段階でアントネッティは日本行きが決まっており、1998年5月9日の地元での最終戦もナントを2-1で下し9位を確保して、日本に向かったのである。

■フランス・サッカーの神髄を感じさせるバスティア

 日本での成績は先述の通りであったが、ガンバ大阪は残留を希望した。しかしアントネッティは契約を半年短縮し、家族を残したコルスに戻る。バスティアの監督に復帰した1999-2000シーズンの成績は10位であった。「今季の飛躍につながっている原因は、育成た選手を安易に移籍に出さないことにある」とアントネッティは言っている。アントネッティが指導者の道を選ぶきっかけとなったのは、18才の時にエリート育成機関であるINFヴィシーでピエール・ピバロに出会ったことである。ボスマン判決以降選手が流動化し、地元の選手ばかりではなく自国の選手も少なくなってしまった現在、地元の選手で固めたバスティアの姿はフランス・サッカーの神髄を感じさせる。

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