第3594回 戦争中のフランスサッカー(3) リーグ戦に参加できなかった禁止地域のRCランス
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■シーズン中断後にドイツの軍政下に入ったフランス
第二次世界大戦が開戦したのは1939年、フランスのサッカー界は1939-40シーズンから1944-45シーズンまで6シーズン、戦時下で試合を行っていくこととなる。戦時下での最初のシーズンとなった1939-40シーズンのフランスリーグは、前回の本連載で紹介した通り、選手のプロ契約が解除される中で、2部制を廃止し、参加できるチームを地域ごとの3つのブロックに分け、シーズン開幕時期を遅らせたが、北部グループでは最後まで日程が消化できなかった。その理由はシーズン終盤に当たる1940年5月10日にドイツがベルギーなどに侵攻、フランスにも5月15日に攻め込んできたからである。
前々回の本連載で紹介した通り、ドイツ軍は6月14日にパリに無血入城、パリが陥落した直後にアドルフ・ヒトラーがエッフェル塔をバックに撮影した写真はあまりにも有名であるが、ここからフランスは不名誉な日々が始まることとなる。6月17日には抗戦派だったポール・レイノー首相が辞任し、講和派のフィリップ・ペタンが首相となり、ドイツとイタリアに対して休戦を申し入れる。フランスとドイツは6月22日に休戦協定をコンピエーニュの森の鉄道車両内で締結する。講和することにより、フランスはドイツの軍政下に入ることになったが、他の占領された国と異なるシナリオになった。
■北半分は占領地域、南半分は自由地域という名のドイツの傀儡政権
それはフランスの北半分はドイツの占領地域となるが、南半分は自由地域となり、フランスの主権が認められたことである。ところが、この自由地域はフランス国と名乗り、ペタンが主席となり、中部の都市ヴィシーに政府を移したことからヴィシー政権と言われる。第一次世界大戦の英雄であるペタン元帥は国民的な人気を誇っていたが、その国民からの崇拝をよいことに、独裁的な権限を持つ。さらに、このペタン政権はドイツの傀儡政権であったということは看過してはならない。すなわち、自由地域とは名ばかりで、ユダヤ人の迫害などナチスドイツ同様の政策を進めた。抗戦派だった前首相のレイノーやアルベール・ルブラン大統領は亡命を試みたが拘束され、フランス占領に反対するシャルル・ド・ゴール准将はロンドンに亡命し、自由フランスを結成した。
■占領地域と自由地域に分かれて行われたリーグ戦
このような形でフランスが形式的には2つに分割された後に始まったのが1940-41シーズンである。占領下で移動に制約がかかることから、北部の占領地域は7チーム、南部の自由地域は9チームが参加してリーグ戦を行うことになった。それぞれホームアンドアウエー方式でリーグ戦を行った。北部グループはレッドスターが9勝2分1敗という成績で優勝した。前年の北部グループで優勝したルーアンは2位であった。
南部グループは10勝4分2敗のマルセイユと11勝2分3敗のトゥールーズが勝ち点24(当時は勝利の勝ち点は2)で並んだ。この時の順位決定方法は総得点と総失点の比率で決定され、総得点44、総失点16で総得失点比率が2.75のマルセイユが総得点37、総失点17で総得失点比率が2.18のトゥールーズを抑えて優勝、ただし、北部の占領地域と南部の自由地域のチームでフランスチャンピオンを争うことはなかった。
■禁止地域のリーグ戦で優勝したRCランス
なお、占領地域の中でベルギー国境に近い地域ならびに沿岸地域は禁止地域とされ、フランスの官憲が立ち入ることができなかった。この禁止地域の中のベルギー国境に近くにあるRCランス、バランシエンヌ、ルーベなどは独自にリーグ戦を行い、フランスリーグのチャンピオンになることはできなかったのである。
なお、RCランスはこの時代もトップレベルであり、フランスリーグ開設時には2部であったが、1937年には1部に昇格、戦前最後のシーズンとなった1938-39シーズンは7位、そして前回紹介した戦時下最初のシーズンは北部で4位となっている。禁止地域での5チームによるリーグ戦でRCランスは優勝したが、その功績が認められることはなかったのである。(続く)