第3596回 戦争中のフランスサッカー(5) 南部の優勝はトゥールーズ、北部の優勝はRCランス
平成23年東日本大震災、平成28年熊本地震、平成30年7月豪雨、台風15号、19号、令和2年7月豪雨、令和6年能登半島地震などで被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。また、復興活動に従事されている皆様に敬意を表し、被災地域だけではなくすべての日本の皆様に激励の意を表します。
■フランス全土をドイツが占領した1942年
第二次世界大戦は1939年に始まり、1945年に終結したが、フランスがドイツの占領下にあったのは1940年から1944年の4年間である。北部と東部は占領地域となり、南部と西部は自由地域となった。しかし、フィリップ・ペタンを主席とし、ヴィシーに政府機能を置いたフランス国は形式上は中立国であったが、ドイツの傀儡政権であった。フランスはドイツやイタリアに食料や資源を提供し、海外で運営していた植民地もドイツ軍や日本軍に明け渡した。日本の読者の皆様であれば、いわゆる仏印駐留の経緯をよくご存じであろう。
国民的人気を誇ったペタンを首班とするヴィシー政権であるが、次第にその力は落ちていく。もちろん、シャルル・ド・ゴールの国外での自由フランス活動もあったが、むしろドイツが前面に出てフランスを支配したことによる。ドイツは北アフリカのフランスの植民地も占領していたが、1942年にモロッコとアルジェリアに米英からなる連合軍が上陸し、あっという間にドイツ占領地域を制圧した。この北アフリカの喪失を受けてドイツはフランス占領に注力し、フランス全土を占領することになった。
■国内の移動が容易になり、北部グループと南部グループに16チームずつが参加
このような戦局の変化もあり、占領地域と自由地域の往来は当初は厳しく制限されたが、次第に占領地域、自由地域、禁止地域の間の移動も緩和されるようになった。開戦4年目、占領3年目となる1942-43シーズンは北部グループと南部グループの2つに分けられ、前年まで禁止地域のグループで戦っていたRCランス、リールなどは北部グループに入る。
北部グループ、南部グループとも16チームで行われ、開戦後最も多くのチームが参加した。2部リーグは存在しなかったが、開戦前最後のシーズンとなる1938-39シーズンは1部が16チーム、2部は21チーム(当初は23チームだったが2チームが棄権)の合計37チームで行われており、占領下においてサッカー界が落ち着きを見せたということが言えるであろう。そしてこのシーズンも南部グループの優勝チームと北部グループの優勝チームが争うことはなく、フランスチャンピオンは決定されなかった。
■南部グループの優勝はトゥールーズ、フランスカップ優勝はマルセイユ
南部グループは前年の自由地域グループで2位になったトゥールーズが優勝した。南部グループで3位になったマルセイユが、5月に行われたフランスカップでは優勝している。なお、このシーズンのフランスカップは前年に続き、占領地域、自由地域、禁止地域に分かれてトーナメントが行われ、占領地域のボルドーが禁止地域のRCランスを下し、決勝に進出する。ボルドーは自由地域のマルセイユとコロンブで対戦、延長になっても同点(当時はPK戦は存在せず)、再試合で、マルセイユが4-0と勝利している。
■ステファン・デンビッキの活躍で北部グループで優勝したRCランス
北部はRCランスが圧倒的な強さで優勝、23勝4分3敗という成績で2位のルーアンと3位のフィブに勝ち点13の差をつけた。当時の勝ち点は勝利が2点であり、現在の勝ち点3の制度であれば30試合で2位に勝ち点で23の差をつけており、近年のパリサンジェルマン以上の強さを見せた。
各グループに得点王が存在するが、注目したいのは43得点で北部リーグ優勝に貢献したRCランスのステファン・デンビッキである。スタニスの愛称で親しまれたデンビッキはポーランド人の両親のもとでドイツのドルトムントで生まれる。第一次大戦の復興期に家族はルール地方からフランスの炭鉱地域に移る。父親は炭鉱夫であり、デンビッキ自身も炭鉱夫となる。デンビッキは23歳の時に当時2部のRCランスとプロ契約、RCランスの1部昇格と機を同じくしてフランス国籍を取得し、フランスB代表、フランス北部代表、フランス軍隊代表などに選ばれた。
強烈なシュートの持ち主であったが、1939年から3年間は従軍し、フィールドから離れる。しかし、デンビッキの勤務先であるノール・パ・ド・カレー炭鉱がデンビッキを除隊させ、1942-43シーズンに復帰し、そこで43ゴールをあげ、チームを優勝に導いたのである。
しかし、その翌シーズン、ヴィシー政権の政策にサッカー界は翻弄されるのである。(続く)