第3597回 戦争中のフランスサッカー(6) 変則的なシーズンを制したランス・アルトワ地域

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■ドイツのスポーツ政策を実行したヴィシー政権

 前回の本連載では開戦4年目、占領3年目の1942-43シーズンを紹介した。占領後最多の32チームが北部と南部のグループに分かれ、リーグ戦が行われた。今回は続く1943-44シーズンを紹介しよう。当時の人々は知る由もないが、これは占領下最後のシーズンとなる。しかし、ヴィシー政権によって大きな変更があった。
 ドイツの傀儡政権であるヴィシー政権はフィリップ・ペタン元帥が主席であったが、実務を取り仕切っていたのはナンバー2のビエール・ラバルであった。ラバルはペタンよりも親独的であり、1942年に首相の座に就く。このヴィシー政権はドイツに身体的敗北をしたと捉え、スポーツ行政を推進したのである。すなわちスポーツは楽しみではなく、身体を鍛え、国力の基礎となるものであると推進した。皮肉なことに戦前よりも戦争中の方がサッカーの競技人口(フランス連盟への登録者)が大幅に増加している。

■総合体育・スポーツ総局長を務めたジャン・ボロトラとジョゼフ・パスコ

 このスポーツ行政を担ったのが占領直後の1940年7月に発足した総合体育・スポーツ総局であり、初代の局長に任命されたのがジャン・ボロトラである。本連載の読者であればよくご存じの名前であろう。初期のデビスカップで活躍したテニス選手である。ボロトラの時代にプロ契約の廃止(サッカー、ボクシングなどに関しては3年の猶予期間)や13人制ラグビー、卓球、バドミントンなどの禁止がなされた。
 1942年にラバルが首相に交代するとともに、局長がジョセフ・パスコ大佐に代わる。パスコはラグビーのフランス代表のスタンドオフの経験があるが、ナチス・ドイツ的な政策をとり、1943年に公布した法律はさらに極端なものであった。

■16の地域対抗で行われ、選手の身分はステートアマ

 サッカーのフランスリーグに関してはこれまでのプロチームを地域選抜チームに再編し、選手は国家公務員として給与が得られるステートアマとなり、外国人選手は禁止された。また、このシーズンはホームアンドアウエー方式で行われたが、本来の本拠地ではない会場で行われる試合も多数あった。
 前年のリーグ戦に参加した32チームは地域ごとに統合され、16チームに再編され、1943-44シーズンのリーグ戦が行われた。フランス全土でリーグ戦が行われるのは開戦前の1938-39シーズン以来5年ぶりのことである。地域選抜であり、例えばマルセイユ・プロバンス地域というチームはほとんどの選手はマルセイユの選手であったが、ナンシー・ロレーヌ地域の場合、ナンシーとソショーなど複数のチームの選手で構成された。

■連合国軍の空襲により一部の試合が未消化、優勝はランス・アルトワ地域

 初の地域対抗となり、開戦後初めて全国リーグとなったが、開戦初年の1939-40シーズン同様に戦火のために消化できない試合があった。このシーズン後に米国と英国などからなる連合軍がノルマンディーに上陸し、フランスは解放されるわけであるが、連合軍は上陸前に海岸沿いのドイツ軍に向けて空爆を行う。さらに、ドイツ軍から上陸予定地を予想されないように広範囲にわたって空爆を行った。この際に多くのフランス市民が犠牲になったが、同時に国内のレジスタンスもこの連合軍の空爆を支援したことにより、国内の移動に支障が出ることがあった。この連合国軍による空爆の影響で、5試合が消化できなかったのである。
 優勝したのは1試合消化できなかったランス・アルトワ地域である。29試合で19勝3分7敗の勝ち点41、2位で全30試合消化したリール・フランドル地域を勝ち点1上回っている。前年に優勝したRCランスのメンバーが主力であり、試合の延期が相次ぎ、ランス・アルトワ地域は終盤の試合をパリ近郊のサントゥーアンで戦う。6月10日のシーズン28試合目となるナンシー・ロレーヌ地域戦で敗れ、優勝はリール・フランドル地域かと思われたが、翌11日にリヨン地区に勝利して、ランス・アルトワ地域が優勝を決めた。前年の南部グループ得点王のステファン・デンビッキが得点王となったのである。(続く)

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