第3598回 戦争中のフランスサッカー(7) 6年ぶりのリーグ優勝クラブとなったルーアン
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■6月6日に連合国軍がノルマンディー上陸、8月25日にパリ解放
首相がビエール・ラバル、総合体育・スポーツ総局長がジョゼフ・パスコにそれぞれ代わり、よりドイツに近い政策をとるようになり、1943-44のフランスリーグは選手の身分をプロではなく、公務員扱いとし、外国人選手を認めず、全国を16の地域に分けて行うという変則的な開催となった1943-44シーズンはRCランスのメンバーで固めたランス・アルトワ地域が優勝した。
シーズン終盤は上陸を控えた連合国軍の空爆があり、未消化の試合があったことは残念であるが、6月6日にノルマンディーに上陸した連合国軍はパリに進撃、ドイツ軍の抵抗があったものの、フランス国内のレジスタンス活動が激しくなったこと、8月16日には連合国軍が南仏に上陸したこともあり、8月25日にパリを守備していたドイツ軍は降伏、パリが解放された。機を同じくしてヴィシー政権も崩壊し、前年の6月に北アフリカのアルジェで成立したフランス共和国臨時政府のシャルル・ド・ゴールが帰国、フランスは占領から解き放たれたのである。
■9月30日にパルク・デ・プランスで行われたフランス代表-英国陸軍戦
このパリ解放の翌月の9月30日、記念すべき試合がパルク・デ・プランスで行われた。フランス代表が英国陸軍チームと対戦した。この試合のキックオフセレモニーはマリー・ピエール・ケーニグである。2度の世界大戦に従軍した軍人である。第二次世界大戦では英国に渡り、シャルル・ド・ゴール将軍率いる自由フランス軍に加わり、ビル・アケイムなどアフリカ戦線で活躍する。パリ解放後はドゴールからパリ軍事総督に任命され、キックオフを任され、フランス代表は英国陸軍チームを5-0と破っている。
■プロクラブの戦いに戻ったフランスリーグ、南北に分けたリーグ戦の勝者で決勝
パリ解放後にシーズンを迎えたフランスリーグは新たな方式で行われた。まず、地域対抗ではなくクラブ同士の戦いに戻った。そして選手の身分も公務員ではなく、プロ選手となり、プロのクラブがプロの選手を擁して戦う姿に戻った。
パリは解放されたものの、まだフランス全土を見渡すならば、戦闘が続けられている地方があり、ドイツ国境に近い東部のクラブは参加できなかった。また、国内の交通網はレジスタンス活動を含む戦闘で破壊されているものもあり、前々年同様、フランスを北部と南部に分け、それぞれ12チームでホームアンドアウエー方式でリーグ戦を行い、北部グループの優勝チームと南部グループの優勝チームがレギュラーシーズン終了後に決勝を行い、フランスチャンピオンを決定することになった。
ただ、国内の混乱は続き、シーズン開幕は大幅に遅れ、北部グループは11月に始まり、南部グループは翌年の1月までシーズン開幕を待たなくてはならなかった。それに加え、1944年から1945年にかけては世界的な寒波の影響で試合開催が見送られることもしばしばあった。
■北部グループのルーアンが南部グループのリヨンOUを倒し、優勝
遅れて始まった南部リーグを制したのはリヨンOUであった。現在はリヨンOUというとラグビーのチームが有名であるが、もともと1896年に誕生した総合スポーツクラブである。現在はラグビーとグラウンドホッケーのチームしか残っていないが、1940年代はプロのサッカークラブも活動していた。プロチームとして唯一のタイトルがこのシーズンの南部グループでの優勝、ボルドーと勝ち点で並び、得失点差で上回った。
北部グループを制したのはルーアンであった。ルーアンは1944年4月にクラブの本社が爆撃によって破壊されたが、見事に占領から解放されたシーズン、中心となったのはFWのロジェ・リオであった。この名字に本連載の読者の方は心当たりがあるであろう。1978年のアルゼンチンでのワールドカップに出場したパトリス・リオの父親である。リオは1934年のイタリアでのワールドカップにフランス代表として出場しており、親子でワールドカップに出場した第一号である。
ルーアンは北部グループを制し、6月24日にコロンブで行われた試合でリヨンOUを4-0と一蹴し、1938-39シーズン以来6年ぶりにフランスリーグでナショナルチャンピオンのクラブが生まれたのである。(続く)