第3593回 戦争中のフランスサッカー(2) 最後まで日程が消化できなかった1939-40シーズン

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■全国リーグを断念、3つに分かれてリーグ戦を展開

 第二次世界大戦にフランスが参戦したのは1939年9月、8シーズン目を迎えたフランスのプロサッカーリーグは大きな影響を受けた。戦時下となり、若者は徴兵され、プロスポーツ選手はその存在を否定され、9月末には選手のプロ契約を解除することになった。スタートしてから2部制を採用していたフランスリーグであるが、この1939-40シーズンに1部、2部関係なく参加できるチームを募り、1部16チーム、2部23チームの合計39チームのうち、参加できると意思表明した23チームを北部と南部の2つに分け、さらに南部は南東部と南西部に分け、3つのリーグ戦を行うことになった。参加が不可能になったクラブのうち、ドイツ国境に近いストラスブールは南西部のペリグーに活動拠点を移して、下位のアマチュアリーグに参戦することになった。また、北部のリール、ダンケルク、バランシエンヌも参加を見送った。

■南部グループは西ブロックのボルドーが東ブロックのニースを下す

 リーグが開幕したのは3か月遅れの12月初めで6月までリーグ戦が繰り広げられ、各地区の優勝チーム同士でフランスチャンピオンを決定する予定であった。しかし、実際には参加したのは21チームにとどまった。北部グループ10チーム、南部グループ東ブロック5チーム、南部グループ西ブロック6チームに分かれてホームアンドアウエー方式でリーグ戦が行われた。南東ブロックならびに南西ブロックについては全試合を消化し、4月28日に南東ブロック優勝のニースと南西ブロック優勝のボルドーがセートで戦い、南部のチャンピオンとなり、北部グループの優勝チームと対戦するはずであった。

■ラシン・パリが優勝したフランスカップ

 10チームで行われた北部グループについては、フランスサッカー連盟が、フランスカップの日程を優先したため、試合消化が遅れた。このシーズンのフランスカップは当時としては史上最多の800チーム近くがエントリーし、9月から始まった。リーグ戦が日程を遅らせて開幕したのに対し、フランスカップは例年通りのスケジュールを守った。
 これはフランスリーグが8回目に対し、フランスカップは23回目という歴史の違いもある。また、フランスカップは第一次世界大戦中に誕生し、戦争中に開催したというプライドもあったであろう。さらにアマチュアも出場するフランスカップに対し、プロ選手が出場するフランスリーグという違いは大きいであろう。戦時になり、国家総動員体制の中で屈強な身体の持ち主はプロのサッカー選手としてボールを蹴るのではなく、軍服を着て戦うべきだという世間の空気にあらがえないのが戦争の怖さである。
 この年のフランスカップは創設時、すなわち第一次世界大戦時の名称であるシャルル・シモンカップとして開催され、5月5日にパルク・デ・プランスで決勝がマルセイユとラシン・パリの間で行われた。2万5000人の観衆の前で行われ、マルセイユが先制したが、ラシン・パリが逆転し、2-1と勝利している。

■5月にドイツがフランスに侵攻、北部グループは途中で打ち切り

 このようにカップ戦、南部グループのプレーオフも終わっていたが、カップ戦の上位進出チームに北部グループのチームが多かったため、北部グループでは5月にリーグ戦を集中的に行い、チャンピオンを決めるはずであった。
 ところが、前回の本連載で紹介した通り、それまで戦闘が行われていなかったドイツとフランスの間で戦争が始まったのである。5月10日、ドイツが西部方面に侵攻、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクへ軍を進め、5月15日にフランス国内に侵入した。こうなるとサッカーの試合の開催は不可能である。5月12日にリーグ戦の試合を中断する。
 北部グループはホームアンドアウエーで消化すべき18試合のうち、多いチームでも15試合しか消化できず、フランスカップで優勝したラシン・パリに至っては半分の9試合しか消化できない段階で、シーズンが終わった。
 この時点で北部グループの首位のルーアン、南東ブロック優勝のニースと南西ブロック優勝のボルドーがフランスサッカー連盟からはチャンピオンと認められているが、シーズン打ち切りの直後、フランスはドイツに占領されることになるのである。(続く)

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