第3595回 戦争中のフランスサッカー(4) 女子サッカーの禁止、ドイツリーグでプレーしたメッス

 平成23年東日本大震災、平成28年熊本地震、平成30年7月豪雨、台風15号、19号、令和2年7月豪雨、令和6年能登半島地震などで被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。また、復興活動に従事されている皆様に敬意を表し、被災地域だけではなくすべての日本の皆様に激励の意を表します。

■参加チームが増え、スタッド・ド・ランス、セート、RCランスが優勝

 1941-42シーズンは戦争が始まって3年目、占領されて2年目となり、3つのグループに分かれてフランスリーグが行われた。この1941-42シーズンの特徴は、参加チームが増加したということである。占領地域は7チームから2チーム増えて9チーム、自由地域は前年と同じ9チーム、そして禁止地域は5チームから大幅に増えて12チームが参加し、トータルで30チームが参加した。
 占領地域はスタッド・ド・ランスが優勝、自由地域はセートが優勝、禁止地区はRCランスが優勝した。前年に引き続き、これら3つのチームがフランスリーグのチャンピオンを決めることはなかった。

■各地域の勝者が対戦し、優勝チームを決めたフランスカップ

 一方、占領されてからもフランスカップはフランスチャンピオンを決めている。国内の往来に制限のかかる中で、地域ごとにカップ戦を行い、1940-41シーズンはまず占領地域のボルドーが自由地域のトゥールーズを下し、ボルドーは禁止地域のフィブとパリ近郊のサントゥーアンで対戦し、2-0で勝利している。続く1941-42シーズンのフランスカップは占領地域のレッドスターが禁止地域のRCランスをホームアンドアウエー形式で対戦して、1勝1分で破り、決勝はコロンブで行われた。自由地域の優勝チームであるセートをレッドスターは2-0と下して優勝している。

■女子サッカーを禁止したヴィシー政権

 このように書くと占領下においてもサッカーが日常のように行われたように思われる読者の方も多いであろうが、ドイツ占領下にあり、ドイツと戦火を交えることはなかったが、英国軍がドイツ占領下のフランスに空爆を行うことはしばしばあり、多くのフランス市民が命を落としている。さらに植民地との通商が途絶えることになり、植民地に多くを依存するフランス経済はその力を失った。多くの労働者がドイツの生産力を高めるために派遣され、フランスで生産された製品は国内ではなくドイツに輸出されることになり、配給制となり、市民の生活が困窮したのである。
 ドイツによる占領の影響はサッカー界にも及んだ。まず、この1941年に女子サッカーが禁止された。フランスにおいては1910年代から女子サッカーが行われ、フランスカップも行われてきたが、ヴィシー政権はサッカーだけではなく、他の女子スポーツも禁止したのである。ドイツの傀儡政権であったヴィシー政権はスポーツを個人の楽しみの対象ではなく、国家に貢献するためのものとしてとらえていた。そのようなヴィシー政権の政策がフランスにおける柔道の普及や、トップアスリート育成のためのナショナルトレーニングセンターの設置という現在へのレガシーも残しているが、フランスの女子サッカー界は大きなブランクを迎え、その復活は1970年代まで待たなくてはならなかったのである。

■ドイツ領となったストラスブールとメッス

 そしてドイツが攻め込んでドイツ領となった地域があることを忘れてはならない。それがアルザス・ロレーヌ地方である。このアルザス・ロレーヌ地方はドイツとフランスが1000年以上争奪戦を繰り広げてきた地域であり、鉄鉱石と石炭の産地であり、当時の鉄鋼生産を支える地域であった。ドイツ経済を支えるためにアルザス・ロレーヌ地方は実質上ドイツに編入された。
 この地域にある主要都市はストラスブールとメッスである。ストラスブールは西南部のペリグーに拠点を移し、アマチュアリーグに転戦したことは前々回の本連載で紹介したが、メッスは異なる歴史を刻んだ。メッスのあるモゼール県は1871年から1919年までドイツ領であった。現在のFCメッスの起源と言えるチームが生まれたのはドイツ領時代の1905年、第一次世界大戦が終了しフランス領に戻る1919年に複数のクラブが合併して現在のFCメッスの原型となる。メッスはドイツ領になった1941-42シーズンからドイツのリーグに所属したのである。ただ、このクラブにはプライドがあった。チーム名をFVメッスと変更し、ドイツ南西リーグ(当時のドイツには全国リーグは存在せず)で好成績を残したのである。(続く)

このページのTOPへ