第20回 フランク・ソーゼー、「蛍の光」の故郷スコットランドで引退(後編)

■ソショーで育ち、マルセイユへ

 さて、フランク・ソーゼーのクラブでのサッカー人生を振り返ってみよう。ソーゼーは1965年に南仏のオーブナスで生まれる。南仏生まれでありながらソーゼーが育ったクラブは北部のドイツ国境に近いソショーである。このクラブはプジョーが資金的な援助をしているだけではなく、社員寮などを選手育成の施設として提供しており、若手育成については定評が高い。その成果もあり、1988年は若きソーゼーにとって記念すべき年となった。2部リーグのソショーは1部リーグから2部リーグに降格したばかりのソショーはリーグ優勝するとともに、フランスカップでも勝ち進み決勝に進出する。決勝ではメスに敗れたものの、ソーゼーはU-23代表の中心メンバーとして欧州U-23選手権で優勝し、代表チームにもデビューする。そしてフランスを代表するビッグクラブのマルセイユに移籍し、ソーゼーは帰ってくるべきところに帰ってきたのである。

■マルセイユの黄金時代の中心メンバー

 ソーゼーはマルセイユに移籍した1年目と2年目にリーグを連覇する。1990年から1991年にかけて1年だけモナコに移籍してフランスカップを獲得し、1991年には再びマルセイユに戻ってくる。1993年までの2年間、リーグ連覇をする。つまりソーゼーは1988-89シーズンから1992-93シーズンまでのマルセイユの五連覇の中心選手として活躍したのである。そして特筆すべきは1993年5月26日、ついにマルセイユはミラノを破り、チャンピオンズカップ(現在のチャンピオンズリーグの前身)を制する。このマルセイユの黄金時代を支えたのがソーゼーなのである。
 しかしながら、故郷マルセイユのユニフォームを着てビッグイヤーを掲げた栄光も八百長疑惑によりタイトルを剥奪されてしまう。シーズン終了後にイタリアのアタランタ・ベルガモに移籍したのである。翌年フランスに戻り、1994年にストラスブール、1996年にはモンペリエに移籍する。そして1999年に海峡をわたり、エジンバラのハイバーニアンに移ったのである。

■不運が付きまとった黄金の5年間

 1988年がソーゼーの黄金時代の始まりであるならば、1993年はソーゼーの黄金時代の終わりであったとも言えよう。この5年間、ソーゼーはブルー(代表)とライトブルー(マルセイユ)のユニフォームを着ていたのである。(正確には途中モナコに1年間所属していた)
 代表チームのメンバーとしては2回のワールドカップ予選に全試合出場、という選手は世界でも数少ないであろう。しかしながら、2度とも一歩及ばず、世界の桧舞台を踏むことができなかった。
 また、国内リーグを五連覇したマルセイユの黄金時代とちょうど同じ時期にマルセイユに在籍し、最後の年にはミュンヘンで宿敵ミラノを破りながらもタイトルを奪われる不運に見舞われた。以降、イタリア、フランス、スコットランドと移籍を繰り返しても国内リーグでも優勝争いとは無縁のサッカー人生を送った。
 もし、ソーゼーが、ディディエ・デシャンやローラン・ブラン同様、ワールドカップ・米国大会予選後もブルーのユニフォームを着つづけたならば、1998年のワールドカップ・フランス大会、あるいはその2年前の欧州選手権・イングランド大会で栄冠に輝いていたかもしれない。そしてデシャンがユベントスというビッグクラブで欧州の頂点を極めたように、ビッグクラブの中心選手として栄光の座につくことができたのかもしれない。

■「カイザー・ソーゼー」惜しまれて引退

 しかし、ハイバーニアンでは、「カイザー・ソーゼー」というニックネームで「スコットランドのベッケンバウアー」としてファンに愛され惜しまれての引退となった。デシャンもブランも「カイザー」という称号は得ていない。指揮官としてソーゼーが新たな道を歩み始めたその日は奇しくも日本では忠臣蔵の題材となった四十七士の討ち入りからちょうど300年。一足先に指揮官となり悪戦苦闘しているデシャン、現役として活躍中のブランとは違うどのような道をソーゼーは歩んでいくのであろうか。(この項、終わり)

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