第28回 追悼-フェルナン・サストル

■ミッシェル・プラティニとの二人三脚

 1998年6月10日、パリ郊外サンドニのスタッド・ド・フランス。今世紀最後のワールドカップが開幕した。メーンスタンド中央の貴賓席にはフランス政府、サッカー界の要人が集まっていた。しかし、一人だけここにいなくてはならない人物が欠けていた。1992年のフランス大会組織委員会の発足以来、ミッシェル・プラティニと共同委員長のコンビを組んできたフェルナン・サストルである。75才のサストルは体調を崩し、ピティエ・サルペトリエール病院に入院中であったが、プラティニは最後までサストルの回復を望み、隣の席を空けていた。
 プラティニは、大会期間中精力的に各会場を回り、自らが黄金時代を築き上げた80年代のフランス代表を彷彿させるユニホームにデザインを復古させた代表チームが開催国優勝を飾り、決勝戦では自らもユニホームを着るなどのパフォーマンスで組織委員会の顔となった。しかし、今大会の成功をサストルの存在抜きで語るわけにはいかない。
 共同委員長という複数のトップが存在する組織形態はフランスでは珍しくない。徹底的に自己主張するフランス人の文化に合わないという意見もあるが、逆に共同委員長のように複数のトップを存在させることによって対話を行い、フランス人が最も苦手とするが組織運営上では最も重要である協力の精神を持たせるためにとられる手法である。1992年のアルベールビル冬季オリンピックでもミッシェル・バルニエとジャン・クロード・キリーが共同組織委員長となって運営した。キリーはグルノーブル冬季オリンピックで活躍したフランススキー界の大スターであり、サッカーのワールドカップもこの例にならったのである。

■アルジェリア生まれのフランス人

 サストルは1923年アルジェリア生まれ。より正確に表現するならば「フランス領アルジェリア」で生まれた「フランス人」である。フランス統治下のアルジェリア在住のフランス人は「ピエノワール」と呼ばれる。独立後の現在、アルジェリアでは市内の標識、店の看板は西欧語では英語のみが認められており、フランス語は認められていない。
 約20ヘクタールの農場を所有するサッカー好きの父と伯父に連れられ、日曜日にはアルジェリア・サッカーのメッカであるサンテュージェーヌ競技場に試合を見に行く少年時代だった。高等教育を修了していたため、教員になる可能性もあったが、サストルは官僚の道を選んだ。第二次大戦後の1946年11月にアルジェリアのセティーフで公務員となり、その後フランス本国のオセールの主席税務検査官となる。
 サストルとサッカーの関わりは、アルジェリア・サッカーリーグのメンバーとなったことに始まる。1962年のアルジェリアの独立に先だって1955年にパリのフランス・アマチュアリーグの事務局に入る。サストルがパリに来たのは当時のサッカーの規律の乱れを正すためであった。

■フランス協会会長として改革に辣腕を振るう

 フランスがグループリーグで最下位となったワールドカップ・イングランド大会のあった1966年、フランス協会内ではサストルら若手を中心に2つの改革がなされた。選手の契約期間の明確化と、ジャック・ブローニュをチーフとするナショナルトレーニングセンターの開設である。ナショナルトレセンは、各クラブのコーチの育成から着手し、クラブレベルでは成果があったものの、代表は1970年のメキシコ大会の出場を逃してしまう。
 1973年、西ドイツ大会の予選で代表が再び予選落ちした年に、サストルはフランス協会の会長に就任する。サストルは当時隆盛を誇っていたアヤックスのコーチであったステファン・コバックと契約した。コバックの指導はミッシェル・イダルゴへと受け継がれ、1978年のアルゼンチン大会には久しぶりに出場を果たす。サストルは1985年まで12年間会長を務めたが、1982年にはワールドカップ・スペイン大会で4位、1984年には地元開催の欧州選手権とロサンゼルス・オリンピックで二冠を達成した。協会会長を辞した翌年のワールドカップ・メキシコ大会でも3位と、代表チームは抜群の成績を残している。
 また、代表チームの強化だけではなくサッカーの普及にもつとめ、この12年間に競技人口は85万人から170万人へと倍増、登録クラブ数も1万4000から2万1000に増加した。

■サッカーの商業化を嫌ったサストル

 一方、アルゼンチン大会では第1戦の前にアディダス社以外と契約している選手が特別手当を要求、受け入れなかった場合はスパイクの三本線を黒いテープで隠すという事件が起こり、サストルはこの事件を収拾したが、サストルのその後に影響を与える。サストルはスポーツであるサッカーが金銭がらみになることをひどく嫌っていた。サストルが1985年に3期務めた協会会長を辞した理由は、ジャン・リュック・ラガルデール(マトラ・ラシン・パリ)、クロード・ベス(ボルドー)、ベルナール・タピ(マルセイユ)といった金にものを言わせてチームを強化し、選手のサラリーを高騰させる新たなタイプのクラブ経営者の出現を嫌ったからであると言われている。
 しかしながらサストルは、フランスサッカー界に不可欠な存在として今回のワールドカップのトップとして戻ってくる。フランソワ・トリュフォー監督の映画「柔らかい肌」の舞台となった「ル・バルディゼール」では、プラティニと打ち合わせをかねてよく昼食をとっていた。このレストランはフランス・スキー協会関係者もよく利用しており、共同組織委員長制で成功したアルベールビル冬季オリンピックにあやかろうとしたのかもしれない。また、つかの間のバカンスには同じくピエノワールであり、サッカーをこよなく愛したノーベル賞作家アルベール・カミュの自伝を携帯していった。
 残念なことにフランスがマルセイユで南アフリカに快勝した翌日の6月13日、サストルは入院先で夭折する。この日ナントで行われたナイジェリア-スペイン戦では、アフリカのチームがヨーロッパに勝ち、決勝ではアルジェリア移民のジネディーヌ・ジダンが活躍し、開催国フランスが優勝する。ピエノワールであり、サッカーの商業化を嫌ったサストルは、今大会をどのように評価しているのであろうか。

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